ダイバーシティが招くのは格差社会か?

評論

これからはダイバーシティ(多様性)が重要だ、個性を尊重すべきだ、という論調があります。日本が誇ってきた勤勉が支える画一性がグローバルな競争で優位を発揮できなくなった現状では無理からぬ発想ではあります。ただ、その先にあるものは果たして万人に喜ばしいと認識されるものであるか?

多様性を認めるということは、少なくとも短期的にはコストの増大を認めるということです。例えば、一人ひとりにあった教育を提供するということはN人いれば最大でN通りのカリキュラムが必要です。一人ひとりにジャストサイズの洋服をつくるのでも同じです。サービスを考えてもそれは同様で、飛行機のファーストクラスは乗客一人ひとりのニーズに合わせてサービスが提供されます。それは画一的なサービスのエコノミークラスとは対照的です。

このように多様性を認めれば、標準化・画一化された場合にくらべてコスト(手間)がかかります。にもかかわららず、多様性が求められるのは資本主義経済においては矛盾するようにも思えます。

その答えは少数がもたらす圧倒的なパフォーマンスにあります。多様性を認めることで各々が持つ強みを最大限に伸ばすことが可能になります。そして、中には途方もないパフォーマンスを発生する人がいるものです。そういった少数のハイパフォーマの存在が増大するコストをカバーして余りあるメリットを世に提供します。

もちろん、多様性を認めるということは経済原理一辺倒な考え方以外も当然認めるということです。しかし哀しいかな今の世界は資本主義経済が支配しています。したがって、多様性を伸ばした結果が資本主義という軸にうまくのらない場合は経済的には失敗したかのように見えてしまうのです。つまり格差社会の到来です。

多様性を認めるという原点から考えれば、これを「格差」とするこの解釈は正しくありません。多様性を認めるのなら、評価軸にも多様性を認めねばなりません。つまり金銭的に裕福な人と貧しい人が存在することを「格差社会」などと断じない考え方です。それは資本主義的な観点からみたときに「差」が存在しているだけです。

このことを万人が受け入れた上で多様性を認めるならば明るい未来となるでしょう。しかし、あくまで資本主義的な観点に縛れるならば、多様性の行き着く先は格差社会の助長になります。

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