Google先生がいればもう記憶する必要はないのか?

思考

ひと頃のゆとり教育からの揺り戻しから学校教育については相応には詰め込む方向に回帰していますが、社会人についてはどうか。

コンピュータが登場する以前、多くの知識をもつことはすなわち多くのことを暗記することを意味しました。ところが、覚えることの得意なコンピュータが現れて状況は変わりました。必ずしも暗記する必要はなくなったのです。ましてインターネットとGoogle先生が登場してからはなおさらです。「ググればわかることを覚える必要は無いし覚えても価値がない」という論調も生まれました。確かに一面においてはそのとおりのことが起こってはいます。

ではもはや記憶することに意味は無いのかというとさにあらず。

ググるという行為は脳内の記憶を引き出すよりもはるかに時間がかかります。思考という脳内で完結する行為において、ググるという行為を挟むことは大きなオーバーヘッドです。将来的にはこのオーバーヘッドは小さくなるのかもしれません。それでも脳内に知識をとどめておく価値はまだあります。

思考をめぐらせる中で関連の薄そうなもの同士を結びつけて新たな着想を得るには脳内に多くの知識があったほうが有利です。異なる事柄が脳内で偶然に結びつく過程にググることをいれるのは難しいでしょう。それが可能になるときには人間とコンピュータの境目はあやふやになります。

Google先生が補助脳として使える時代になったとはいえ、いまのところはまだ「補助」です。コンピュータではHDDという補助記憶装置よりメモリという主記憶装置にデータがあったほうが早いですが、脳もいまのところは同じです。博識であるだけでは価値を生まないかもしれませんが、価値を生むためには博識であることは大いに役にたつでしょう。

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