異常な世界の住人となり、異常こそ正常にする。

ほぼエッセイ

昨今は、「正常」という範囲をあらかじめ定めておいて、それを外れると「異常」とする風潮も一部にはあるようです。健康診断などはその典型例ですが、人間に対しても同じような扱いをしているケースも散見されます。このエントリではその是非については棚上げしますが、実のところ異常な方がよいのかもしれません。

「異常」という言葉は不穏当ですが、大多数の人間とは異なる人をそう呼ぶのなら、極めて大きな成果をあげた人は明らかに「異常」です。オリンピックに出場するアスリートやノーベル賞を受賞する人は、ある点においては突き抜けており、ありふれた存在ではないことから、「正常(=ふつう)」とは言えないでしょう。

つまり、他人と異なった大きな成果をあげたいのなら、進んで異常となることを受け入れる必要があります。さらに、その成果の出し方が斬新であればあるほど、他人からは「異常な人」という目で見られることになります。人は見慣れぬモノに対しては奇異の目を向けるものです。しかし、ひとたび成果の価値が認知されると手のひらを返したかのように賞賛するのです。

となると、「異常」というレッテルを貼られる期間をどうしのぐかがポイントになります。これについては、「異常」な人たちの集まりに属するというのがひとつの選択肢となります。世間から見れば「異常」であったとしても、そのコミュニティの中では「正常」であることがむしろ異常です。そして、志を同じくする者たちが集うコミュニティならば、みな同じ方向に「異常」なはずです。よって、そのコミュニティにおいては「異常」こそ「正常」になるのです。

そんなコミュニティで切磋琢磨を続けていれば、世間相場から見たときに突き抜けた存在にならないはずがありません。もちろん、それが世間に認められるかはまた別問題ですが、突き抜けない限り人並み外れた成果をあげることなどできません。

成果をあげることを目指すも目指さないも個々人の自由です。しかし、世間からは「ふつう」の人と思われ続けつつ突出した成果をあげたい、などというのは無理な相談でしょう。

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