不特定多数が書いているかどうかよりも、検証されているかが重要。〜 いわゆるWikipedia問題 〜

思考

物事の定義を語るときに「Wikipediaによると…」という表現が様々な文章で見られるようになった一方で、「Wikipediaは不特定多数の人間が執筆しているから信頼性に劣る」という言説もいまだに聞かれます。不特定多数の人間だと本当に駄目なのでしょうか…?

集合知に関する詳細な説明や研究については、『「みんなの意見」は案外正しい』に書かれているのでここでは述べませんが、結論としては書籍のタイトル通りなのです。

ここではあまり難しくせず、執筆者として「特定少数の権威者 V.S. 不特定多数の一般人」という構図で考えてみます。

前者がいわゆる昔ながらの百科事典の作られ方であり、百科事典に限らず既存メディアの存在の仕方でもあります。後者は、百科事典ではWikipediaがそれにあたりますが、ネット上のほとんどの情報も当てはまるでしょう。

さて、権威者が正しい/正しくない、という議論に持って行くと収束を見なくなるので、視点を変えて「他者による検証/選別が存在するか?」を見てみます。

前者は、特定少数の人間が執筆を行うので編集や校正という作業は入るでしょうが、基本的には著者の主張がそのまま反映されます。文章を書いているのが何らかの価値観をもった人間である以上、そこには主観が混入します。ある事柄について、その分野の権威者が執筆をしたとしても、その事柄について肯定的に捉えているのか、否定的に捉えているのかによって、表現は異なってくるでしょう。

後者では、不特定多数の人間が執筆を行うゆえ、書かれた文章が正しいかについて他者による検証が行われることになります。世の中には意見の割れる事柄も多数あるので、そういった項目については編集合戦とよばれる行為が行われたりするわけですが、最終的にはそう偏りのないポイントに落ち着きます。様々な見解を持った人間が参加している限りは、ですが。

結局のところ、真に中立的/客観的な文章など存在しないので、いかに検証が行われたか、あるいは検証可能かが読者にとっては重要といえるかもしれません。そして、検証可能性はWikipediaのポリシーでもあるわけです。

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