何を記憶するかよりも、どう意味づけを続けていくかが重要。

ほぼエッセイ

最近は情報爆発といわれるほどに情報化社会となりました。とはいえ、まだ圧倒的な量の情報を日々捨てているのが人間です。

年齢を重ねるにつれて記憶力が低下したように感じる人は多いですが、最盛期の記憶力を保持していた頃でも日々大量の情報を忘却していたはずです。朝起きてから会社や学校へ行く間ですら圧倒的な量の情報が目・耳などから入ってきます。そのほとんどは見聞きした瞬間から忘却するわけです。忘却することこそが自然なのです。

膨大に流れていく情報の中で、何らかの意味づけに成功したものだけが記憶として残ることになります。意味のあるものが記憶され、意味のないものは捨てるわけです。

であるならば、何が記憶として残るかは何に意味を見いだしているかで変わってきます。人は主観という色眼鏡をかけてしか情報を処理することができません。同じ景色を見たとしても、その光景にある自然に目を向ける者もいれば、人工建造物に目を向ける者もいます。それはひとえに興味・関心がどこにあるか、どのような価値観で生きているかによるわけです。人は見たいモノしか見ていないのです。

静的な光景ですらそうなのですから、日々の体験をどう捉えるかは十人十色となることでしょう。ポジティブな色眼鏡で見る人もいればネガティブな色眼鏡で見る人もいるでしょう。それを毎日続けていったときに、ポジティブな解釈だけを続けていた人とネガティブな解釈を続けていた人で、どちらが豊かな人生となるかはほとんど明らかに思えます。

圧倒的な量の情報が捨てられるなかでいかに記憶に残すかということよりも、記憶に残ったモノがどういう意味づけを与え続けた結果なのかのほうが遙かに重要に思えます。いくら記憶力が豊かであってもネガティブな記憶しないのであればそれは人生を豊かにするとは思えないですから。

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