良質な思考のためには大量のインプットが必要で。

ほぼエッセイ

最近は「思考の言語化」を毎日のように考えています。いかにして思考を言語化するのか?そのときの手順はいかなものであるか?どうしたら言語として凝固するのか?

いまだ答えらしき答えは見つかっていません。それゆえ、今日もこうして曖昧模糊としている脳内からなんとか言葉をひねり出しているという状況です。イメージとしては水の枯れかけている井戸から無理に水をくみ出しているという感覚です。

このように無理にくみ出している日がある一方で、調子の良いときになると、湧水のように湧いてきて、くみ出す必要もないのだから不思議なものです。とはいえ湧いてくることと、それをうまく言葉に落とすことはまた別の話ではあり、言語として凝固させられぬまま流してしまうこともあるのが、また難しいところです。

いずれにせよ言えることは、くみ出す水も湧く水も地下水であるということです。そして地下水は過去に地表から浸透した水であるということ。大量に降り注いだ雨が大地により濾過され、いずれその一部が良質な湧水となって地表に戻ってくるのです。

このアナロジーをそのまま思考に転用するならば、いつかのインプットが現在の思考の結果(アウトプット)だということ。事前に情報を投入することなくひらめきを汲み出そうというのは無理な話と言うことになります。

良質な思考が汲み出せないのだとしたら、しばらく前のインプット、しかもその量を疑ってみる必要があるかもしれませんね。

 

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