何によって喜ばれたいのか?

ほぼエッセイ

タイトルはドラッカーの著作にでてくる「何によって憶えられたいのか?」(ドラッカー名著集 4 非営利組織の経営)からもってきました(笑)。今回は少し言葉遊びをします。

少し前に、「経済的自由を手に入れるために稼ぐのだ」と何かの本で読んだ気がしますが、さて経済的な自由の先にあるものは何なのでしょう?

経済的に自由であれば、時間的にも自由である可能性が高くなります。なぜなら時間は相当程度お金で買えるからです。自分自身が必要なこと以外はすべてアウトソーシングしていけば、時間的にも自由になっているはずです。

つまり、先ほどの問いは「経済的にも時間的にも自由になった先にあるものは?」に変わります。

そこに「何によって憶えられたいのか?」という問いがやってくるのでしょう。自分は何者でありたいのか、ということです。Being と表現されることもあります。また別な言い方をすれば自分自身の存立基盤です。

生きているからには世の中に何らかの価値を提供したいものです。提供先が特定人物なのか団体や社会というより広範なものかは分かりませんが、価値を提供された側は喜ぶはずです。そして、その価値が大きいほどにその人のことを憶えてくれるでしょう。

つまり、「何によって憶えられたいのか?」という問いの表現を変えると、「どんな価値を提供したいのか?」であり、「何によって喜ばれたいのか?」になるということです。

さて、自分自身は何によって喜ばれたいのでしょうか…。

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