教えるためには言語化する能力が必要。

ほぼエッセイ

世の中には教えるのがうまい人とへたな人がいます。その分野において成果をあげている人には教えを請いたいものですが、必ずしもそういった人が教えることに長けているとは限らないのが難しいところです。

人間は基本的に言語によってコミュニケーションを行いますから、何かを教える/教わる場合も基本的には言語によって行われます。お手本を見せるということもあるでしょうが、それだけでは職人技を見て盗む世界になってしまいます。やはりなんらかの説明は必要で、そこには言葉が必要なのです。

成果をあげている人というのは、そのための行動が習慣となっていることも多いでしょう。つまり、無意識的有能の状態です。この状態では、意識して行動をしているわけではないので、言語が介在しません。

したがって、他人に教えるとなると無意識に行っていることを意識の上にのせて言語化するという作業が必要です。この能力に長けているかどうかが、教えることがうまいか否かを決める要因のひとつとなるでしょう。名選手が名コーチや名監督になるとは限らないのです。

そして、こういったことは何も世間離れした成果をあげる人に限った話ではありません。人それぞれの持つ個性(能力)というのは、他人から見れば非常に興味あるものです。ときにはその能力をどうやって身につけたかを聞かれることもあるでしょう。

そういったときに、普段からいかに自分の能力を言語化できているかで、うまく答えられるかが決まります。やはり、これも普段からの心がけが必要でしょうね。

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