日々の解釈(意味づけ)の繰り返しが大きな差となる?

思考

ビジネス書や自己啓発書によく出てくる逸話に次のようなものがあります。

ある未開の地に二人の靴を売るセールスマンが行きました。現地の人々はみな裸足で生活をしているのを見て二人のセールスマンはこう言いました。

A:「ここでは誰も靴を履いていない。靴なんて売れるわけがない。」

B:「ここでは誰も靴を履いていない。これは大量に売るチャンスだ。」

この逸話を元にしていろいろなコトが語られるわけですが、煎じ詰めればひとつの事実に対する見方は多様だということです。

人間が見聞きする事象はそれ自体には意味はありません。上記の逸話でも、裸足で生活している民族がいたということは単なる事象なので意味はありません。そこに意味づけをしたのはセールスマンのほうです。Aはその事象を靴が売れない理由とみなし、Bはマーケットを見いだしました。

人間は日々多くのことを見聞きしています。そしてそれらに対してほとんど無意識のうちに解釈を与えて暮らしています。ほとんど無意識というのがくせ者で、ややもすると自己を取り巻く世界にゆがんだ解釈を与えかねません。かといって、一つ一つの事柄に対してどのように解釈を与えるべきかを逐一検討していてはあまりに時間がかかり一日と生活することはできないでしょう。

とはいえ、一日に幾度となく与える解釈は日々の積み重ねいかんでは大きな差となることでしょう。おそらくは複利のように。ときには自分が日々どのような解釈を行い続けているのか振り返って見る必要がありそうです。

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