必要は学びの母。

ほぼエッセイ

タイトルは「必要は発明の母」からとりました。必要に迫られると、発明や工夫が生み出されるという意味です。しかし、これは何も発明に限った事ではなく、学びにも当てはまるのではないでしょうか。

「こんな事を勉強して将来何の役に立つのか分からない」という趣旨のことを、中学生や高校生のときに思った人は多いのではないでしょうか。一方で、いざ社会に出ると「なんで学生の時にもっと勉強しておかなかったのだろう」と後悔する人も多いようです。かくいう筆者もその一人です。

中学生や高校生のときに勉強する意味がわからないのは、必要に迫られて学んでいる分けでもなければ、将来的に必要に迫られる可能性も予見できていないからです。そして、大人になってはじめて勉強をする必要に迫られ、後悔するというわけです。

とはいえ、学生の時にもっと勉強しておいたら本当に後悔しないのかというと甚だ疑問です。おそらく、どこまでいっても後悔しなくなるということはないのではと思います。ひとつには、仮にどれだけ学生時代に勉強していたとしても、「もっと出来たはずだ」と振り返ることは容易だからです。もうひとつは、これが重要なのですが、学生の頃の勉強は必要に迫られていない分だけ歩留まりが悪い可能性が高いのです。

学校に組まれたカリキュラムや親が行けといった塾での勉強と、身銭を切って申し込んだ勉強会を比べたとき、どちらが必死で学ぼうとするかは比べるまでもないでしょう。必要に迫られているから身銭を切り、身銭を切るからさらに身が入る、という構造になったときが最も貪欲に学ぶのではないでしょうか。そうなれば、自然と学びの歩留まりは上がってくるでしょう。

やはり、人間というのは多少の痛みを感じないと本気になれないのかもしれませんね。

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