教育を受けるとは環境の購入に近い。

ほぼエッセイ

教育サービスにお金を投じることは、ある指向性を持って人が集う環境を購入することに等しいのではないか、などと思う今日この頃。

日本には義務教育というものがあって、中学校までは公立校であれば無償で教育を受けることができます。最近は一部選択制の自治体もありますが、原則として学校は居住地により自動的に決定されます。

小中の9年間をどんな学校で過ごしたかは人格形成において無視できない影響を与えるように思います。ニュータウンに位置する学校と、都市部の繁華街に位置する学校では雰囲気は自ずと違うはずです。後者のほうがより多様なバックグランド(=家庭・家族)をもった子供たちが集うはずです。

公立校を選ばず、あえて私立校に通う(通わせる)のは、単に授業というコンテンツの質だけでなく、環境を選択したいという要求から行われるのではないでしょうか。

高校になると選択肢の幅は多少広がりますが、当人の学力によって相当程度の制約を受けることになります。高校は中学校3年時の学力によってフィルタリングされた人々が集う環境になります。

大学もまた然りですが、集う人のバックグランドが広がるのと、学内でもバラエティにとんだコミュニティが存在する点が少し異なります。とはいえ、大学の場合は伝統があるほど学風がかなり色濃く表れるので、環境もその影響をうけることになります。

社会人になると、教育サービスを受けるときには単にコンテンツを買う以上に、環境を買うという側面が強く出るように思います。社会人が学びたいことの多くは書籍として世に出回っているので、学ぶ意思があれば相当程度のことは独力で学ぶことができます。

それにも関わらず、予備校や勉強会やセミナーに通う人が一定数存在するのは、ある指向性をもつ集団の中に身を置くことでより効率的に(半ば強制的に)学びたいからでしょう。

そうやって環境を購入することで、自らを進みたい方向にナビゲートするのが、教育サービスの一つの使い方ではないでしょうか。

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