自分の人生で「そもそも論」を語れないのはヤバイかも。

ほぼエッセイ

組織などの共同体において嫌われがちなものに「そもそも論」があります。具体的にどう実行しようかという議論をしているときに、「そもそも、それはなぜ必要なのか?」という原初に立ち返った発言をすると基本的に嫌われます。ちゃぶ台返しもいいとろこなので当たり前です。

利害関係者が複雑に入り交じった状況だったり、誰も経緯がわからないほど時がたっていたりすると、「そもそも論」に触れないという暗黙の了解のもと、物事が進んでいくこともあるでしょう。「そもそも論」を語ったところで、価値観の議論にしかならず実利につながらない局面もときにあるでしょうから、一概にどうこう言うのも難しいところです。

とはいえ、自分の人生に関しては「そもそも論」が語れなければちょっと危険です。そもそも、自分は何がしたいのか? どういう人生を送りたいのか? 何を大事に生きていきたいのか? などなど…。そういった事が語れず、また目も向けず、日々に忙殺されていては後々悔やむことになるでしょう。

何を大事にするかや、どういう生き方を目指すかというのは基本的に個人の自由です。世間とのしがらみもあろうとは思いますが、7つの習慣で「主体性を発揮する」・「目的を持ってはじめる」と言われています。主体的に目的をもって生きていかないと成果も上がらなければ幸福にもなれないのです。それは、イコール自分を「そもそも論」から考えるということでもあります。

そしてまた「何によって憶えられたいか?」を考えることともほぼ同義でしょう。

タイトルとURLをコピーしました