知識労働者とアスリートの違い。

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筆者は最近、プログラマあるいはアーキテクトたるエンジニアは知識労働者であると考えています。そしてエンジニアはアスリートのようなものだとも考えています。

 

プログラマに「人月単価」という値段をつけてみたところで、個々のプログラマの生産性に歴然たる差が存在することは否定し得ない事実です。したがって労働時間に成果が比例するという単純労働モデルは適用できません。「よい」プログラムを書くには明らかに知識が必要であり、それはプログラマが知識労働者であることと同義と考えます。プログラマがシステムのアーキテクチャそのものを設計できる知識と経験を身につけた先にアーキテクトがいるという前提にたてば、これらのエンジニアはともに知識労働者です。

一方で、エンジニアはアスリートのようなものだとも考えています。能力のある人がだけが生き残り、それでも体力の衰えなどから30代半ばを超えると引退を迫られる点がそっくりであると考えたからです。善し悪しは別にして、「SE35歳定年説」が現実の世界には存在していることを鑑みると、筆者の考えた方は当たらずとも遠からずなのでは、と思うのです。実際問題、変化の激しいこの業界で、いまのペースでインプットを大量に行いながらアウトプットを出していくのは、体力が衰えたり家族がいたり経済的な余裕がなくなれば難しいでしょう。体力が残っている独身貴族(あるいはそれに近い存在)でなければこなしていけないと感じます。(知的生活というのはそもそも金がかかるといったのは渡部昇一氏だったでしょうか)

このように考えるとエンジニアとアスリートは非常に近い関係ということになりますが、エンジニアが知識労働者であるならば、知識労働者とアスリートも近い関係になるのでしょうか?

答えは否だと思われます。

知識労働者の生産性は年齢とともに低下するどころか、むしろ質の点においては大きく向上するでしょう。それはベースとなる知識・経験が増加することに起因します。量の点においては、「知識労働者」という単語を発明したドラッカー氏が90歳を超えてなお、あれだけの著作を残していたことを考えると減少していくとは限らなそうです。いずれにしても、知識労働者の生産性はアウトプットの価値で決まるので、その点において年齢の制約はほとんど受けないでしょう。

となると、エンジニアは「真の知識労働者」ではないということでしょうか。年齢が制約変数とならないような働き方を考えないといけないですね。

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