どうせやるなら徹底的に。そのためのリスクヘッジ。

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世間という名の引力に負けそうな今日この頃です。
マイノリティを目指しつつも、あまりのマイノリティさに不安になる。自らが最良と思って行動しても果たして周囲はそれを受け入れるのか不安になる。自分が他人に迷惑をかけていないか常に気にしている。周囲の評価を気にするのはとうの昔に辞めたはずなのに、明らかに周囲の評価を気にしてしまっている。

理由はわかっている。「金のため」だ。企業から給与という形で生活資金の提供を受けている以上、企業に評価される必要がある。出世する気がなくとも首を切られないためには相応には評価されなければならい。そして、日本企業における人事評価者は上司あるいは人事権をもつ役職にいる「人間」である。人間が評価する以上、評価者の気に入らない言動をする被評価者の評価は低くならざるを得ない。数々の研究が評価において主観的なバイアスがかかることを主張していることを知っている人ほど、自然と権力者に迎合的な態度をとってしまう。もちろん、それは処世術としては非常に有効だ。だが…。

たとえ、職を失うことになろうとも自らの信じる行動を続ける。それぐらいの覚悟がなければマイノリティでなど居続けられない。マイノリティでいることはリターンを求めてリスクをテイクすることに他ならない。とうぜん、失職するリスクだってテイクしなければ話にならないのだ。
もちろん、意図的に権力者に刃向かうつもりも、その必要性もない。だが、なんらかの事情により組織対個人の構図での戦いをせざるを得なくなったとき、負けるのはもちろん個人である。その結果敗者は組織から退かざるを得ない。別にそのこと自体は問題ではない。
問題は、それが自動的に生活の糧を失うという特典と抱き合わせだということだ。このリスクが顕在化したときのダメージが大きすぎる。

つまり、リスクヘッジとして失職しても生活の糧を失わない手だてを準備していればよいのである。
もともと万人に好かれることを目的とした人生ではない。自らが最良と信じることを続けた結果であればどのような結果であれ甘受すればよいではないか。だから、どうせやるなら徹底的に。

とりあえず、最悪の場合はどこかの駅でビッグイシューを売ればいいんだから。

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