多少は前回をふまえつつ。
誰しも喪失体験というのはあるもの。仮にいままでそんな体験がなかったとしても、最後には必ず体験することになる、自らの命の喪失という形によって。
さて、そんな死に対する人間の反応として有名なものに、エリザベス・キューブラー・ロスによる死の受容のプロセスがあります。
「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」のプロセスです。
詳細は Wikipedia 先生に譲るとして、おそらく死というのは人間の極限状態のひとつだと言って良いと思うのですが、そういう極限状態における考察というのは「平時における異常」にも結構役に立つのではないかと。つまり、喪失体験に関しては結構当てはまるのではないかと。
もちろん、死においてすら上記のプロセスを踏まない例外はあるようなので、すべての喪失体験に適用できるというつもりはありません。
それでも、例えば買ったばかりの高級品を紛失したと気づいたら、
「いやいや、たぶん家に置いてきたのだ」=「否認」
「やっぱりないな、買ったばっかりなのにっ!」=「怒り」
「保険かなんかでカバーできないもんだろうか」=「取引」
「あー、やっぱりなくしたんだ。。。。」=「抑うつ」
「しょうがない、あきらめよう」=「受容」
と似たようなことは結構ありそうな気はします。
このアナロジーが唯一違うのは、死は避けがたくかつ死の先は現世での未来はないのに対し、その他の喪失体験ではその先もあるということでしょう。それでも、あるいはだからこそ、このアナロジーは結構効くのではないかと思うのです。