論説文と二項対立。〜それは白にも黒にもなるもの〜

思考

前回は、「同期型と非同期型が選択可能なら、同期型コミュニケーションを選ぶ。」というエントリを書きました。このエントリに限りませんが、当blogではよく出てくる「二項対立」について少し書いてみたいと思います。

このblogに書かれているほとんどのエントリは「論説文」にカテゴライズされるはずです。blogとしてのカテゴリには「ほぼエッセイ」も用意していますが、それとて限りなく論説文であることが多いです。

論説文とは、筆者の主張を説明する文章のことであり、多くの場合は論理によって裏付けが行われます。このblogにおいても例外ではなく、筆者が考えたこと(一応「論考」なので)を筆者なりのロジックを駆使して説明しているのです。

そして、論説文でよく出てくるのが「二項対立」です。ふたつの相反する事項を並べて、そのどちらかに重きをおいて論説を展開するのです。二項対立の場合には「対比」という手法が使えるので、論理としても組み立てやすいのです。

論説文においては、二項対立のどちらかに重きがおかれ、そちら側に肯定的な結論が導かれます。しかし、だからといってもう片方を否定していますのは時期尚早というものです。

もちろん、その結論は筆者の見解に過ぎないというのも理由の一つですが、そもそも絶対的に白黒をつけられるような「二項対立」はほとんどありません。善・悪という二項対立でさえ、「必要悪」という言葉があるように、ときに悪が正当化されるぐらいなので、一般的な二項対立ならなおさらです。

天動説・地動説のような科学的に白黒がつけられる事象はともかく、抽象概念になればなるほど価値観の世界になるでしょう。これは、極論をいうと二項対立の世界においては、白を黒とも黒を白とも言えてしまうのかもしれません。

では、その実例として、次回はあえて非同期型コミュニケーションの肩を持つ論説文を書いてみます。

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