アウトプットがないときはインプットを。

未分類

このblogは筆者にとってはアウトプットの一環なのですが、アウトプットを行うにはインプットがないとダメです。きょうはそんなアウトプットとインプットのお話。

 

意味のあるアウトプットというのは、インプットよりも遙かに難しいし、労力がいるというのが筆者の体感です。そして、こうやってアウトプットとして出てくるのはインプットしたものの1割にも満たない気がしています。

インプットすること自体に意味や喜びを見出すのでなければ、インプットはアウトプットのための下準備に過ぎないわけです。ときおり、それを忘れてインプットすることだけで満足してしまうというのは筆者に限らないようで、巷の書籍を読むといかようにしてアウトプットにつなげるか、という記述を目にします。

とはいいつつも、いつでも良質なアウトプットが出てくるとは限らないわけで、そういうときには意図的にインプットの比率を多くするのもありだとは思います。ただし、意図的に行うことが重要だとおもいますが。

 

筆者は研究室時代あまり優秀な学生ではなかったので、研究成果としてのアウトプットはお世辞にも質のいいものが出ていたとは言えません。しかし、自分の専門以外の知識もインプットし続けていたように記憶しています。そしてそれがジワジワといまになって効いてきてる気がするのです。

インプットした知識をペーパーテストでほとんどそのままアウトプットするというのであれば、インプットからアウトプットまでの時間は短くても問題ありません。しかし、インプットした知識が自らの血となり肉となりアウトプットに組み込まれるには相応の時間がかかるのではと感じます。地表に降り注いだ雨が長い時間をかけて濾過されてわき水としてわき出るがごとく。あるいは、ワインやウイスキーに熟成期間が必要なように。

このように考えると、いまインプットしたものはおそらく数年先に本当の意味で効いてくるのでしょう。インプットはある種の投資です。それが将来利益として返ってくるかはわからないですが、仕込まぬことには含み益がでることはないのです。

タイトルとURLをコピーしました