世の中では様々なものが「編集」されていることを忘れずに。

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先日のエントリ、トップは独裁的であるべきか否か。について、前半部分で書いた橋下市長の囲み取材について少し掘り下げてみたいと思います。

5月8日登庁時の橋下市長囲み取材

 

女性記者は「答え」ありきで、質問を躍起になって投げかけているように見えました。TV的に視聴率のとれる、視聴者を煽れるような発言を引き出して、そこだけを編集して報道するつもりだったのではないかと。すでに、番組としては記事のストーリーが決まっていて、それに沿うような「橋下市長の回答の映像」が欲しくて取材にいったのではないかと邪推してしまうほどに。

この映像をみて、一番強く感じたのは「編集の力とその怖さ」です。YouTubeにupされている動画は約30分あります。しかし、この取材映像がわずか数十秒の映像に編集されてTVでは放映されるはずです。その時に、橋下市長のあのしっかりとした論理性はどの程度伝わるのでしょう?

橋下市長の口調はきついという見方はあると思いますが、公務員の職務が法によって規定されるという前提の上にロジックをしっかりと組みあげた回答をしていることが映像の全編を見るとよくわかります。

むかしスパコンの事業仕分けで蓮舫さんが「2位じゃだめなんですか?」発言をしたときも、会議の全音声を聞いてみたことがあります。あのときの会議は1時間でした。それが、「2位じゃだめなんですか?」というフレーズだけが繰り返しニュースでは報道されました。報道というのはインパクトのあるところだけを編集によって切り取るのだな、と感じます。

 

編集という行為についてもう少し考えてみます。

TVで流される映像は、確かに実際に起こったことを撮影して流しているので決してねつ造などではありません。しかし、編集という行為には何らかの「作意」が存在することもまた事実です。

一方で私たち視聴者がニュースを見るときに、そこに何らかの意味づけを半ば無意識的に求めていることも事実なのではないでしょうか。報道番組にコメンテーターがいるのも、ニュースになんらかの意味づけを与えるためとも考えられます。

新聞社が何社もあることに意味があるのは、同じ出来事にたいして様々な解釈で報じるからこそです。そして、読者は新聞社によって論調が変わることを知っています。

 

編集という行為自体は人がみな日常的に行っていることで、何らめずらしいものではありません。この記事も筆者の脳内で編集されて出てきた文章ですし、誰しも日々の会話では話として聞きやすくなるようストーリーを編集しているはずです。

つまり、怖いのは編集という行為そのものではなく、「編集されたものをあたかも素の情報だとおもって受け取ってしまうこと」なのです。

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