コンテンツに興味をもつのか?構造に興味をもつのか?

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情報化社会といわれる昨今ですが、むしろ情報洪水社会で溺れている人が多発しているようにも思われます。だからこそ、コンテンツを取捨選択するキュレーションサービスが流行るのですが、コンテンツの中身だけで追いかける以外にもやるべき事があるかもしれません。

具体的なコンテンツとしてはまったくもって違うものにみえても、そこに内在する構造自体は同じということは往々にしてあります。

例えば、日本語の論説文と数学の証明を比べてみると、だれがどう見ても違うモノに見えます。かたや文字の羅列であり、かたや数字と記号の羅列です。

書いてある内容も論説文なら環境問題かもしれないし、格差社会問題かもしれず、その対象は無数にあります。証明ならそれこそ定理というのは山のようにあるので、多種多様な証明が存在します。

とはいえ、本質的にはどちらも同じともいえます。なぜならば、どちらもある主張があり、それをロジックによって他者に納得させるという構造になっているからです。

論説文であれば、著者の主張が存在し、それを他者に納得してもらうための論理展開がなされるわけです。証明ならばある定理が存在して、それが確かに成立することを数学的記述を用いて論証するわけです。

このように一見ちがうように見えるものでも根本的には同じということはよくあるのです

結局、ここにおいても抽象化能力が極めて重要ということになるのです。

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