思考の言語化は連続値を離散値に変える行為。

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筆者の持論として、アナログとデジタルなら本質的にはアナログのほうが優れている(表現力がある)が、人間が扱うにおいてはデジタルのほうが都合がよいからデジタルが全盛なのだ、というものがあります。アナログとデジタルというのはすなわち、連続値と離散値に相当します。

人間にとって扱うに都合がいいのはなにも、アナ・デジに限った話ではなく、そもそも連続値の扱いが苦手なのかもしれません。原発問題が発生して以来、放射能の「基準値」が議論されていますが、これこそがその象徴だと感じます。

放射線が人体に影響を与えるのかどうかといったら、もちろん影響は与えます。しかし、その影響というのはある値を超えた瞬間に現れるというものではないはずです。発がんリスクが高まるといってもそれは確率でしか表現できず、それは確率分布という連続的な変化になるはずです。

しかし、そもそも離散確率というもの自体ですら理解しにくいのに、連続的な変化をする確率分布を万人に理解しろというのは酷な話です。そうなるとどこかで閾値(=基準値)を設定して、その値以下ならOKという話に置き換えようとします。つまるところ、それはある値を境にして0と1に区別するというデジタルの考えに他なりません。白から黒にグラデーションするのは嫌だというわけです。

このように至る所で人間は連続値を離散値に変換するという行為をやっているわけですが、思考を言語化するというのもまた同じ行為なのかもしれません。

「言葉にならない思い」とか、「思考がうまくまとまらない」という言葉が表すように人間が考えていることは言語には乗せきれない何かがあるはずです。それを強引に言語化するということは、言語で表現出来ない何かを切り捨てていることに他なりません。それは、アナログをデジタルに変換するときに連続的な変化を切り捨ててデジタルな段階的変化に変換することと似ています。

言語化された思考は明らかに有限な存在であるのに対して、思考そのものというのは文字通り無限の存在であると言えましょう。

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