コンテンツではない「何か」にお金を払う時代。

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ネット時代になって、情報というか学習に対するコストのとらえ方が難しくなっている気がします。

例えば新聞記事というのはネット時代以前は新聞を買わなければ読めないものでした。それが今やかなりの記事がネットに出るようになりました。一方で新聞は昔と変わらず販売されているので、記事の内容を入手するだけなら無料と有料を任意に選択できることになります。

大学にしても、入学して相応の授業料を払わなければ講義を受けることは出来ませんでした。ネット時代に入って最初にオープンコースウェアを始めたのはMITですが、その動きは拡大の一途をたどり今では世界の一流大学の講義を無料で見ることも可能になりつつあります。ここでも無料と有料の二つの選択肢が用意されていることになります。

こうなってくると、一体何にお金を払っているのかが見えづらくなります。以前はコンテンツ自体にお金を払っているという捉え方でもそう間違ってはいなかったでしょうし、コンテンツの価値と価格にはそれなりに正の相関があると思っても良かったかもしれません。しかし、一流紙や一流大学のコンテンツが無料で手に入るネット時代において同じように考えるのは無理があります。

これは単にネット時代になって収益化モデルが変化したとかいう話ではなく、ネット自体がオープンという思想を内包していることに起因すると考えた方がよさそうです。したがってこの流れはネットの普及と共に拡大こそすれ、縮小することはないでしょう。

コンテンツ産業がなくなるとは思えないので、コンテンツ自体にお金を払うことはなくならないでしょう。しかし、こと教育においてはコンテンツ以外の「何か」にお金を払うケースはむしろ増えるのかもしれません。そしてその「何か」はおそらくはリアル世界でしか実現できないか何かとなるはずです。

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