手を動かさないことの難しさ。

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昨日の記事で「手を動かさない」とは言ってみたもののこれがなかなかに難しい。
能力的な問題や時間的な問題と言うよりは、精神的な問題として難しい。

これまで労働者というのは、決められた時間に出社し、決められた作業をこなし、決められた時間に帰る、といった労働だった。労働集約型産業の典型例である。この場合、作業をサボれば成果として生産される製品だったりアウトプットは「量」として減るのではっきりとわかる。逆に、しっかりと働いた場合にも「量」として確認できるので自己認識としてもどの程度自分が成果を上げられたのかを客観ししやすい。
一方で、知識労働者のアウトプットは「量」でははかる性質のものではない。なんの価値にもならないドキュメントを大量に書いていたところで意味はなし、日々送られてくるメールにひたすら返信していたとしても、結果として意味のある価値を生み出していなければ成果にはならい。つまるところ、「量」ではなく「質」なのである。しかし、「質」というのは目に見えるとは限らない。したがって一見しただけでは成果が上がっているのか上がっていないのか他人の目にも、自分自身にもわからないのだ。さらに言えば、知識労働者は知識のつまっている脳を使って仕事をしているので、端から見れば物思いにふけっているように見えても、実は非常に価値のあるアウトプットを出すべく脳内で思考が巡らされているかもしれない。しかし、それすら自分でもそれが意味のある思考なのか、価値を生み出さない思考なのかの判断はつきにくい。勢い、「果たして自分は価値を生み出しているのか?」と思い悩むことになる。
前時代的労働形態であれば、作業さえしていれば成果を出していると周りも認めたし自覚も出来た。しかし、知識労働者はそうはいかない。そこに、知識労働者の第一段階の難しさがある。手を動かしていないと時間を無為にしているのではないかと不安になるのだ。これは非常にゆゆしき問題。

さて、どうしたものか。

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