理解してから理解される。

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「理解してから理解される」
昨日の記事でも触れた、ティーブン・R. コヴィー氏の7つの習慣にて、第5の習慣として書かれているものです。

自分の立場や主張を相手に理解してもらいたければ、まずは相手の立場や主張を理解しなければいけない。そう書籍では述べられています。人間は、自分の主張を通すために相手の主張がどうであるかよりも、いかに自分の主張が正しく、あるいは理にかなっているかを相手に理解させようとします。しかし、それは往々にして不毛な結果となります。世界的ロングセラーである『人動かす』(D・カーネギー著)でも、「人の立場に身をおく」・「誠実な関心をよせる」など相手を理解することに重きを置くべきだと繰り返し述べられています。このような主張に疑問を差し挟む余地はないといってもいいかもしれません。

しかし、さらに考えをすすめたとき「理解してから理解される」という考え方は自分自身にも当てはまるのではないか。そう思えてきたのです。つまり、「(相手を)理解してから(相手に)理解される」というスキームにとどまらず、「(自分を)理解してから(相手に)理解される」というスキームも成立するのではないかと言うことです。
自分のことは自分がよくわかっているという主張はよく聞きます。それは間違いではないかもしれません。しかし、果たしてどれほど自分をわかっているのでしょうか。人間という生命体に関する解明がすべて済んでいるわけではない以上、自分を完全に理解している人間など存在しえません。あくまで、他人よりは相対的に自分が自分を一番理解しているだけであって、100%理解しているわけではないのです。おそらく、その理解の深さにはかなりのばらつきがあるのではないでしょうか。そして、自分を理解していないのに、なぜ自分が理解されることがあるのでしょうか。
そう考えたとき、他者理解と同時に自己理解も非常に重要なテーマとして認識することになります。

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