認識された瞬間に主観になる。

ほぼエッセイ

「客観的」とか「真実」という単語は、たいていは「だれが考えても同じ結論になる」という文脈で使われます。

しかし、本当のところ、人間が「客観的」にモノを見たり考えたりすることは不可能と言っても過言ではありません。確かに出来事が発生したという「事象」は唯一かもしれません。しかし、人間はその事象を100%性格に認知することは出来ませんし、事象を認識するときには人間の判断が入ります。つまり主観が介入するのです。

最たる例は歴史です。「○○の戦い」があったとして、そこで「××が殺された」というのは事象です。しかし、そこに至るまで、あるいはその後の過程を後世の歴史家が意味づけたならば主観が入っていることになります。そもそも、過去の記録は勝者が記したものが多いので、敗者の行動が正確に記録されているかも怪しいですし、そもそも記録をする瞬間に人間による編集が入ります。つまり、客観的な記録などと言うものは存在しないのです。

では、写真や映像だったらどうか?

写真はどのような構図でどの瞬間にシャッターを切るかは人間が決めます。つまり完全に主観が入っています。映像にしてもどういうアングルで撮るのかは人間が決めます。そこに主観がはいる余地があるからこそ、写真や映像が芸術となり得るわけで、単なる事象に芸術性はありません。

360度を映すカメラの映像は事象を正確に捉えてはくれるかもしれませんが、それを人間が見て、映像を認識した瞬間に何らかの思考が介入します。つまり主観になります。同じ映像を見てさえ、どこに注目して何を認識するかは人それぞれです。

少し極端な例を挙げれば、野球でホームランが出たときに、打ったのが自分の応援しているチームの打者なら、「ホームランを打った」になるでしょう。しかし、その逆なら「ホームランを打たれた」となります。実はこの表現の差は、投手と打者という二人の登場人物のどちらに焦点をあてて表現しているかに起因しています。どちらの表現をとるかは人間の主観が決めているのです。

人はそれぞれ主観の世界に生きているので、やすやすと「客観的」とか「真実」などとは言うのは避けた方が無難でしょうね。

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