常識というのは思考停止をするための道具であって。

思考

アインシュタインの語録に「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」というのがあります。偏見とは偏った見方、つまりバイアスのかかった思考です。

世界を見渡せば、あるいは自分のいるコミュニティの外を見るだけでも、自分の常識が他人の非常識だということはよくある話です。常識はコミュニティ(組織、国を含む)における文化と密接に関わり合っています。それは無意味に存在しているのではなく有用だから存在しているのです。

常識があることによって、行動様式や思考様式がある程度は固定されます。例えばビジネスパーソンが服装に悩んだらとりあえずスーツを着ていけば大丈夫、というのはその裏にオフィシャルな場ではスーツでいるのが常識だという考え方あります。少々理不尽に思えることがあっても、「サラリーマンならこのくらいはしょうがない」と思って納得する人が多いのも、サラリーマンには少々の理不尽は付きものだという常識が存在しているからです。1

ひとたび常識というものに縛られると、そのおかげで悩まなくて済むようになります。ビジネスの世界でいえばビジネスマナーとよばれる常識にそって行動しておけば大きく間違うことはありません。冠婚葬祭でも同じことです。したがって同一のコミュニティに属する人間同士の付き合いしかないのであれば、常識は手間を省いてくれるありがたい存在ともなりえます。

ただし、常識に縛ってもらうことによって思考停止しているので、ケースバイケースでより適切な行動をとることはできません。行動や思考がお役所仕事的になります。それゆえ、あるラインを超えることはできません。特定のコミュニティの中だけで生活していけるのであればそれでも困らないのかもしれません。しかし、いまはグローバル化だのボーダレス化だの言われる時代です。特定のコミュニティに閉じこもっているのは難しくなるでしょう。別なコミュニティと接する機会は増えるはずです。

そうなったときには常識というは邪魔をします。なんせ偏見のコレクションなのですから。偏見のコレクションを持った人間と仲良くしたいと考える人は希です。唯一の例外は自分も同じコレクションを持っているときです。

コミュニティでうまくやって行くには常識を身につけているべきですが、そこで思考停止をしてしまうと、いざというときに対応出来なくなるので、注意が必要ですね。

  1. もちろん、上記にあげた常識というのは(日本の)企業人というコミュニティで常識とされていることであって、他のコミュニティではこの限りはないでしょう。 []
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