簡単になることが人生を豊かにしているのか?

未分類

文明の発展は、人間が行う様々なことを簡単にする技術の発展と密接にリンクしていると思うのですが、はたしてなんでも簡単になるのがいいのかどうかというのが本日のテーマです。

 

産業革命以前においては、モノの生産量というのほぼ人間の労働時間に依存していました。それが蒸気機関の実用化などにより産業革命が起こり、モノを製造するということの敷居は下がりました。そして現代においてはIT革命によって情報を生成することにたいする敷居が格段に下がったといえるでしょう。

たとえば「コピー&ペースト」なんていうのもその一因です。大学では、学生のレポートがネット上のコピペになったと嘆く教員の声があるそうですが、それも既存の情報を入手、コピーして若干の編集を加えるという行為が非常に簡単になったからです。コンピュータの力により情報を生成することが非常に簡単になったので、世の中に存在する情報は増加の速度を速めているようです。

情報の生成が簡単になったというのは、単に操作が簡単になったというだけでなく、情報を蓄積するリソースの確保が容易になったということも含みます。いくらコピペが簡単だったとしても、コピペするたびにプリンタから印刷された紙が出てくるとするならばもっと躊躇することでしょう。情報がデジタル化されて記憶媒体の上に高密度で記録できるようになったからこそ出来るようになったわけです。事実、記憶媒体の単価が高かった十数年前まではメールを一生分保存しておくなど誰も考えなかったわけです。

より多くの情報が生成され、また入手できるようになったということは一見喜ばしいことのように思えます。しかし、本当にそうなのでしょうか?

人間は選択肢が増えすぎると逆に選べなくなるという心理学の実験結果もありますし、判断に使える情報量が増えたからと行って株価などの相場の予想の的中率は必ずしも上がらないという実験結果もあります。

そして、そもそも溺れるほどの情報に囲まれて、私たちは何を得ようとしているのでしょうか?日々接する情報量が増えるほど、各々の情報に接する時間は短くなるのは必定です。ともすれば本当に大事にすべきものを見逃してしまうこともあるのかもしれません。情報を活用することはあっても、情報に振り回されて貴重な人生の時間を無駄にせぬよう気をつけねばなりませんね。

タイトルとURLをコピーしました