統治された世界と自由な世界。

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独裁的に統治された世界の方が、自由な世界よりもいいときだってあるよ?ってお話です。

 

やっぱりイマドキの携帯はスマートフォンだよね的な流れの中、PCもノートパソコンよりもタブレットという流れ。どちらもAppleが開発するiOSと、Googleが開発するAndroidが二大巨頭でしのぎを削っています。したがってよく比較されるこの二つのOSですが、それが織りなす世界はだいぶ異なります。

AppleのiOSはクローズドな世界です。UNIXであるMac OS Xをベースにしていることは明らかですが、ソースコードはプロプライエタリです。また、アプリケーションの追加もAppleが承認したものに限られているため、自由度が高いとは言えません。

その代わりに、統一的な操作感やデザインが実現されています。「マニュアルがいらないほど直感的」というのは正直ウソだとは思いますが、アプリケーションごとに操作性が全く異なるなどということはなく一度操作を習得すると非常にスムーズに扱うことが出来ます。アプリケーションのUIに至るまでAppleがによる独裁的な統治の結果と言えます。

 

対する、Androidはオープンな世界です。LinuxをベースとしたOSで、ソースコードも公開されているため、端末メーカは各社が独自の機能を追加することが可能です。アプリケーションの追加もGoogleの事前承認は必要ないため多種多様なアプリケーションが存在します。

自由の代償として失ったのが統一感です。端末によってハードキー(ボタン)の配置が違っていたり、アプリケーションによってメニューの出し方や操作性が異なってきます。アプリケーションも玉石混交といった感じで非常にクオリティの高いアプリからマルウェアまで様々です。

 

何がやりたいのかが明確な人間にとっては、やりたいことが必ずできる自由な世界は魅力的でしょう。しかし、そうではない人間にとっては自由度の高さは逆に混沌にも感じられるでしょう。選択肢が多すぎると選べなくなる心理に似ています。

独裁的な世界は自由が限定される代わりに個々人が細かいことを考えなくていいというメリットがあります。人生のほぼすべてを預ける国家にたいして独裁的であることを望んでいる人は皆無に等しいと思いますが、どんな時でも自由がすばらしいかというとそれは疑問です。なにから何までどうするかを自分で考えていたら時間がいくらあっても足りません。人生に致命的な影響を与えるものでないならば、ときには独裁的に作られた世界で思考停止して利便性を享受するという選択肢もあるのです。

 

ただし、人生のすべてをそういう世界に預けてしまうとただの思考停止人間になってしまうのでご注意を。

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